9/25/2010

本屋という生き方

最近は天気がいい日が多いので、仕事の合間を縫って週に一、二回は夫とふたりで外に昼ごはんを食べに行く

ある日食後に外のベンチに腰掛けて休んでいるとき、急に夫が「日本に行ったら本屋をやりたい」と言い出した 日本に住んでいたとき、洋書を置いている個人経営の本屋というのをなかなか見つけられなかったから、自分がやりたいと 大人向け文学書だけでなく子供用の絵本をたくさん置いて、喫茶コーナーやキッズスペースも作り、各種ワークショップや英会話教室も用意した多目的な店にしたいらしい まあ、近頃キンドルやipadもあってますます人は本屋に行かなくなっているのだろうから、ほかのことと抱き合わせで考えるのは、まあ自然といえば、自然だ

書店の危機というのはもうすでオンライン書店が一般化した時点で一度あったのだと思う
今の本屋というのは、ただの本屋以上の付加価値を強調するか、とにかく安い新古書店にするかして、すでにそれを乗り越えた、はずだ(本屋業界の人間でないので、わからないが)
アメリカでも同じで、ゴサムみたいなニューヨークの有名書店とか、田舎暮らしの自分にとって馴染みのあるスクエアブックスやらフォークナーブックスのような小書店も、完全に「付加価値系」だ グッズだって売ってるし、前者なんて、新品、古書部門、児童書と専門別に店舗を設けてけっこう羽振りがいい
でも別に完全に観光客向けって訳でもなく、地域の人々の生活に根づいた本屋だからいいのかな

それにしても、本屋を開くとは急な話だ
え、仮に日本に帰ったら、ふたりして大学で職を探すんじゃなかったっけ?
まあ夫はもともと、アカデミアに強い執着がない人なのだ っつうか、わたしだって、そんなものは今更もうどうでもよくて、食べるのに十分の金が稼げて福利厚生がちゃんとした仕事なら、それでいい。。。今の仕事が安月給でベネフィットがよくないから、それだけは強く思う 

とにかくきっと夫は、わたしがああ日本に帰りたくない帰りたくないということを夏の間繰り返し言ったので、日本に住んでも楽しいことはできるかもしれないと言いたかったのだろう 確かに、地方都市に住んで、お金をためてこういう店を持つのって、悪くないだろうな 東京は、絶対無理だけど。

9/18/2010

細分化する日記ジャンル

前のブログを閉じた主な理由は、知り合いに向けて書いてたので逆に書けなくなったというか、書く前に自主規制をかけてしまっていた部分が強くあったからだった
つまり、書きたい話題はあるんだけど、ほぼ知り合いしか読んでいないってことは、匿名性もへったくれもなくなってしまうわけで
だから今回のブログは、まだ誰にも教えていない(し、教えなくてもいいのかもしれないし)、今のところはただの日記だ

ただ、閉じてしまったことがよかったのかどうか、というのは、今でも疑問に感じることはある
たとえば別個に完全に匿名でやるブログを作って、書く話題も限定してやるとか
でもそうなると、いくつもいくつもブログができてしまい、管理がめんどうだ
加えて、いろんな要素があっての自分だという思いが、どうしてもある
海外暮らしも、研究も、仕事も、日々食べてるものも、メンタルヘルス関連も、全部あって初めて自分の日記として成立するんだと思っている
だから、トピックを絞ったブログを複数書く気には、やはりなれないのだった

さて、せっかく完全匿名からの再スタートなので、にっぽんブログ村にでも登録してみようか、どうしようか

8/28/2010

うちのアルフ

さっき、ひさしぶりに家族と電話で話した
うちの父親は去年脊髄損傷して、退院してからリハビリを続けている 父の介護が忙しいので、母はなかなか電話が掛けられなかったようだ
ひさしぶりに、父、母、それから弟と、順番に話した

わたしは弟には何でも話すので、例により調子が悪いということをあーだこーだ言い、勝手にすっきりしたような気になったのだったが、弟は電話の声がよく聞こえないといって、それからなぜだか、おれがアルフ(一昔前のアメリカのTVドラマのモンスター)ぐらい聞き上手だったらな、とぽつっと言っていた

わたしはアルフが聞き上手などとはついぞ思ったことがなかったが、実はそうだったのだろうか
ゆるキャラであることは、確かだが

8/27/2010

怒りとつきあう

きのうの晩から今日の昼前にかけては随分ひどかった

仕事を再開して最初の週を乗り切って緊張が解けたせいなのか、わけもなく突然に感情的になり、涙が止まらなくなった と思えば次の朝には、常軌を逸した怒りがこみあげてきて、悪態をつきまくった

わたしを知るたいていの人は、わたしが時々このような状態になるということを知らない なんとなく鬱っぽいとか、なんとなく幸薄そうとか、なんとなく頭がおかしそうとか、なんとなく家庭環境が悪そうだとか、そのようなイメージはいくらでもついて回ってきたのだろうが、こう見えてわたしは、日本にいた頃は外面がいいときもあったから、人の悩みを聞いたり助言したりなど、今となっては考えられないような偉そうなこともしていた 
まあもちろん、誰かれ構わず爆発しているようでは、まともな社会生活が営めないのだから、外面を持つのは当たり前のことなのだ しかし家での爆発に常時付き合っている家族、今の場合は夫だが、彼らにしたら、そんなのはとんでもないとばっちりでしかないだろう

怒りのわけはわかっている
どうしても好きになれない人間(隣人の元彼女だか元鞘に戻っただか)がいて、彼女がフェイスブックで夫に話しかけてきたのが耐えられなかったのだ それを見た日は夫の誕生日だったので、大事な日をぶち壊しにしてはならんと思って、そのことは口に出さなかった、でも結局後になって、ふつふつと怒りが沸いてきてぶちまけてしまった 思い返せば去年調子を崩しかけていたときも、実は彼女のことを考えてはブチ切れるということが、何度となくあった これは確実に、トリガーのようなものになっている

ふつうは大人になると、誰かのことを死ぬほど嫌いだとか憎いとか、思ったりしなくなるもんではないだろうか 自分自身、こんなに特定の人間のことを忌み嫌うのは子どものとき以来なので、自分が抱える膨大な怒りの感情に面食らってしまう 

しかし、CBT的には、怒りなどのネガティブな感情を全否定するのは逆効果である 「怒るのはよくないことだ」として抑圧すると、結局「怒ってしまった駄目なわたし」に向かって怒りがブーメランのように戻ってくる そうではなく、ネガティブになっている自分を一旦丸ごと受容した上で、着地点を見出したいのだ

さしずめ、こういうことか: 怒るのは仕方がない すべての人間とはうまくやれないし、たいていの人間は彼女の態度に多少の怒りは感じるのではないか しかし、そのような人間に自分の感情を振り回されてしまうのは、もったいないことだ 第一彼女は遠くに住んでいて、ネット以外で目にする機会すらない 現実には、自分たちの生活にはまったくかかわりのない人間なのだ

あれっ これは全部夫に一回言われたことばかりだなあ…
やっぱり、言われたことが腑に落ちるためには、自分でもう一回書いて受け止めないといけないということか