6/08/2012

子どもの世界

アラバマの夫の両親の家を引き払ってフロリダに戻ってきた
再びstudent housingという名のボロアパートに舞い戻ったのだが、以前は2BRだったのが今回は、比較的新しいとされるエリアの1BRに乗り換えた 手狭ではあるが、前の部屋みたいに他人の髪の毛がくっついたまま床にワックスかけたりしてなくて、まあまあ清潔だし、バスタブも広いし、けっこう気に入っている

そう思っていた矢先、マネージメントオフィスから配布された冊子を見ていたら、われわれの住むエリアの住む建物には、人体に有毒な鉛を配合した塗料が使われている場合があるという 上から何度も塗りなおされているため実際には影響ないのだが、剥がれてきたのを口に入れてしまったりするといけないそうだ うちはバスルームのドアの塗料が剥がれてきていたので、メンテナンスの人に来てもらってサンプルをテストしてもらった 結果はシロで、ドア以外にも壁やプラスティックの玩具などいろいろテストしてもらったが、いずれも問題なく、胸をなでおろした

この一件で気づいたんだが、今の部屋が建てられたのは、1964年 前の部屋は、1960年 何だ、新しいと思ってたのにほとんど変わらないじゃん と同時に、ちょっと時代を下るととんでもなく危ないものがふつうに生活空間の中で使われていたのだということを思って、何だかおそろしい

育児の仕方ひとつにしても、親世代と自分らとではだいぶ情報に差があり、話を聞くととんでもないことをしていたりする たとえば夫はどうも赤ちゃんのころお母さんに蜂蜜を与えられていたらしい(蜂蜜にはボツリヌス菌が含まれていることがあり、抵抗力のない乳児には危険なので1歳までは厳禁 そして、離乳食すら始めていない段階で母乳やミルク以外のものを与えることにそもそも栄養学的なメリットがない) よく死ななかったな! 

お母さんが娘にべったりで、という話を以前に書いたが、どうも彼女は夫の姉Rにも同じことをしてたようだ  Rが完全母乳育児をしていたところ、お母さんは(ミルク礼賛世代なのと、おそらく自分が哺乳瓶でミルクあげられなくてつまらないので)それをやめさせようとしたという 道理で娘が生後2週間くらいで、わたしが母乳の出が悪く悩んでいたときも、今すぐ断乳したほうがいいといつになく強い口調で言ってきたことがあったっけ。。。しかもRの場合は悪いことにお父さんまで「いつまでも母乳なんかやってると弱虫になる」と(いつまでもってそのころ生後一ヶ月ぐらいだったらしいが)加勢し、その間お母さんはRに隠れて哺乳瓶で水をあげ続けていたという 見咎めて叱ると、「水飲ませないと脳に穴が開く」と言ったとか

最近までうちの両親に比べると、夫の両親はだいぶまともと思っていたのだが、夫や姉たちの話を聞くに、めちゃくちゃなところもけっこうあるとわかってきた 2ヶ月ほど前にも、いきなり養子を取ると言い出したことがあった オハイオかどこかの11歳と12歳の兄弟で、18歳まで両親が後見人になる契約らしいが、彼らにもしものことがあった場合に別の人間が後見人になるようサインしなければならないらしくて、それをわたしたち夫婦に頼んできた 子ども3人、孫7人いてこの上養子?というのもまずあるし、本当に何かあった場合に問題含みの(養子縁組される子どもたちには過去のトラウマなどで心理的問題があるケースも少なくなく、養子先の家庭で問題が起きることもけっこうあるそうだ)プリティーン二人を大学に入れるまで育てるなんて、未だに学生やってるわたしらにできるわけないだろ、というわけで丁重にお断りした 

結局Rや叔母さんにも断られて、養子話は流れたが、そのときのRの話によると、両親が養子を取ろうとしたのはこれが初めてではなく、自分らだけでも十分貧しいのに、縁もゆかりもないアカの他人を連れてきて家に住ませる(そして大抵うまくいかない)ことも何度もあったという たとえば80年代のある時期には、ベトナムのボートピープル(!)のウィーとウェイの兄弟が家にいたことがあった ウィーとウェイは本当は18、9歳ぐらいだったらしいが、その歳で移民してきても学もないしできることは高が知れているということで、大幅に歳をごまかして小学校に通っていたらしい 家の誰もそのことに気づかなかったが、ある日ウィーだかウェイだかが、自分のことをからかってくる同学年の子どもらをボコボコにする(本当は19歳だから強くて当たり前)という事件があって、年齢詐称がバレたという

両親のめちゃくちゃぶりは、養子の件にとどまらない 引き続きRの体験談――
(1)ある日海外旅行から帰ってみると、家族が引っ越して家を引き払ってしまっており、書置きひとつも残していかなかったので、しばらく誰とも連絡がつかなかった
しかも実はこれすら初めてのことではなく、
(2)子どものころ、友だちの家でのスリープオーバーから帰ってみると、家が引っ越してしまっていて、誰もいなかった
というのもあったらしい

こういう話を聞くにつけ、よく夫と姉たちはグレなかったな~と感嘆させられる まあしかし、親と親の子育て法については、自分ちも人のことを言えた義理ではない これは書いたかどうか覚えてないが、うちの母親に離乳食を始めた話をしたとき、「やっぱりうちの兄ちゃんがあんなんになったんは離乳食に失敗したせいかなぁ」とぼやいていた いや、自閉症と離乳食なんてどう考えても無関係だろう(ていうか、失敗って一体何したの)、第一ちゃんとした医者に見せたことあるのか、と返すと、「うん、大学病院の女医さんに診てもらったらな、この子はあんまり頭が良くないですよ~って言っとったわ」と

よってたかって子どもの世界を危険にしているのは、実は大人たちだったのだろうか つくづく、自分たちよく生き延びたものだと思う

4/20/2012

Cおじさん

今わたしが住んでいるのは夫の母方の一族が住む小さな町である 彼らの一族を含めこの町に住む人たちの多くは、スペイン系フランス系を先祖に持つクリオールと呼ばれる人たちである 

クリオールと一口にいっても、ここらの人はルイジアナのクリオールやカリビアンのクリオールとはまた違った文化を持っている もともとの先祖はモビールという町に殖民したスペイン系フランス系の人たちらしいが、どのようにしてここに彼らの共同体が作られたのかという過程はあまり明らかではない その容姿から、おそらく共同体を建てる過程でアフリカ系やネイティブアメリカンと混血してきたのだろうということだけは推測される 

長年近隣の大きな共同体と隔絶した辺境で近親婚を続けてきたクリオールは、白人でも黒人でもインディアンでもない、「クリオール」としか言いようのない特徴ある容姿を保つようになった 今の世代は非クリオールの人と結婚する人も増えているので、見るからにクリオール、といった感じではない人も増えているが、多くの人はどちらかといえば背が低く肌色は浅黒く、髪の色は暗く、アフリカ系の血を感じさせるカーリーヘアの人と、ネイティブ風の真っ黒な直毛の人とに分かれている 日本人のわたしからしたら、それでも彼らは肌の浅黒い白人という感じなのだが、南部的文脈では混血、非白人ということで差別も受けてきたようだ この前、1949年に出版されたDown in Creole Country という雑誌の記事を読んでいたら、クリオールの学校の写真というのが出てきたが、そこに写っている子どもたちは半分はクリオール、半分はアフリカ系という感じで、要は白人の学校に行くことができない子たちが集められていたのだということがわかる(当然だが当時の南部は人種隔離の時代である)

もともとスペイン系フランス系がルーツだけに、クリオールの多くはカトリック教徒であり、小さな共同体で暮らす彼らの生活の中心は教会である うちの夫の母方の親族も、ここに残って暮らしている人たちは信心深い人たちが多い 夫の母は元尼僧であるし、お母さんの弟の一人、Cおじさんは神父である

Cおじさんは8人きょうだいの末っ子で、年の頃は50代ぐらいではないかと思う 若い頃はバンドマンだったらしいが、奥さんを病で亡くしたときに信仰に再度目覚めて神父になったらしい そのせいか神父と言っても堅苦しいところがなく人を笑わせるのも好きな、陽気で豪快なおっさんである 陽気なのはいいが、しばしばPC的にちょっとアレな発言が多いので、神父みたいに喋ることを生業にしているといろいろ角が立つことが多いのではないかとこちらがヒヤヒヤする

この前ひょっこり家に遊びに来ていったときは、プロテスタントの強い南部ではカトリックは差別されがちであるという話をして、ある日神父の服を来て保守的と言われるある町に出かけたら、赤の他人がいきなり彼のことをぺドファイルと呼んだ、ということをいった これだけ聞けば、神父稼業も楽ではないなあと同情したくもなるが、Cおじさんはその後付け加えて、「それでその後こびと(midget)に会って、腰を下ろして話しかけたら、俺のことを見下ろしたんだよなあ ぺドファイル呼ばわりされるし、こびとに見下ろされるし、ついてない日だったなあガッハッハ」などと言うので、神妙な気持ちもぶっ飛んでしまうのだった 

また、皮肉なことに非カトリックであるわたしだけがバチカンに旅行で行ったことがあるという話をしていたときも、 「写真取った?」と聞くので、「取った取った」と答えると、「pagan pictures?ガッハッハ」という もはや笑うところなのかどうなのかよくわからない ちなみにCおじさんはわたしが英語が話せないと思っていて、その先入観のためにわたしが何を言っても9割方聞き取れない(自分の英語にアクセントがないとは言わないが、いくらなんでもそこまでひどくはない) おじさんは憎めない人なので、腹は別に立たないし、わたしはわたしでアクセントの問題とは関係なく、あんまり彼が言っていることの内容がよくわからないため、わたしたちふたりの間ではあまりコミュニケーションが成り立たず、傍から見るとほとんどコントのようになっている

ともあれ、Cおじさんはわたしがカトリックでないということについていろいろと思いを馳せていたようで、今回の来訪では繰り返し、わたしが改宗しようと思えばいつでもできる、ということを言って帰っていった なぜ改宗してもらいたいかと言えば、これだけカトリック信仰が生活の基礎になっている一族と結婚し、今はたまたまここに住んでもいるんだから、というがまずあるのだろうし、娘が生まれたから、娘にも洗礼を受けさせたいのだろう カトリックでないpaganである以上、わたしは地獄に落ちることになっていて、一応家族になった人が地獄に落ちるのはやっぱりまずいのかもしれない

しかし、これはCおじさんには言わなかったが、正直にいって、わたしは地獄に落ちようが何しようが別にどうでも構わないのだ わたしは夫の母方の文化的伝統には敬意を払っているが、それだけが理由で形式的に改宗することに意味を見出せない また、もし夫が娘に洗礼を受けさせたいと言えば、それはもちろんそうしてもらってよいのだが、夫自身毎週教会に行くわけでもなく、多くの教理を時代錯誤に過ぎないと思っているわけで、それなのに形式だけ洗礼を済ませる(そしてその後二度と教会に戻らない)のはアホらしいと言う 

この問題何がややこしいかというと、わたしたち夫婦は法的には結婚しているが、カトリックの教義ではカトリック教徒と非カトリックは結婚できないため、教会の元ではわたしたちは結婚していないことになっている もし結婚しようとすれば、わたしは何ヶ月もかけて教理を学んだり、さまざまな複雑な手続きを得なければならない Cおじさん曰く、これもすっ飛ばして紙ペラ一枚提出すればどうにかなるという 神父がそういうのだからできるのかもしれないが、果たしてそうすることがいいことなのだろうか また娘の洗礼に関しても、夫によれば正式には、子どもを洗礼するためには少なくとも両親のうちは片方がカトリックでなくてはいけないし、少なくともふたりともクリスチャンでなくてはいけない これもCおじさんは、大丈夫大丈夫と言うが、どうなのだろうか 

カトリックにはそれはそれはたくさんのルールがある そしてルールのあるところには例外がある 現代に生きていると複雑怪奇な宗教上のルールを遵守することはもちろん難しい そのため何か制度上の矛盾が生じるところにはほとんどと言っていいほど例外事項が存在する たとえばカトリックで一番特徴的なのは離婚ができないことだが、離婚はできなくても結婚を無効化すること(annulmentという)は可能なのである 実際夫の一族でも、教会の元で結婚したけれど、その後離婚した(法的に離婚して教会ではannulmentの手続きを経たということだろう)人は山ほどいる

夫にしたら、これら一連の例外事項がご都合主義にしか見えず、できないことは始めからしなければいいのに、なぜ例外を設けてまでルールを守っている振りをするのかよくわからないらしい paganたるわたしはどっちにしろ蚊帳の外なので、なんだかなんというか、どっちでもよい どっちでもよいが、もし仮に娘が洗礼を受けた場合(おそらくしないだろうが)、家族の中でお母さんだけ地獄に行くということを、彼女がどのように受け止めるのだろうかとは、ぼんやり思うのだった

4/08/2012

時が止まった家

一ヶ月ほど家族で日本に一時帰国していた 帰国中は家事手伝いと育児に明け暮れて完全に他のことを何一つできないうちに時間が過ぎてしまい、ブログをアップするどころか一日五分間のメールチェック以上の用途でパソコンを使うこと自体がなかった

実家に帰ったのは母が足の手術を終え退院し、それに合わせて病院に入っていた寝たきりの父も家に戻ったばかりというタイミングだったが、久しぶりに戻ってみると家もそこに住む人々もかなりとっちらかった状態になっていた

実家はわたしが生まれる前に建てられ、たしか7歳くらいの頃に一部建て増しされたのだったと思うが、近年そこここがもはやどうしようもないまでに老朽化し、またそこに住む人間たちが、もう家をきれいに保つということ自体どうでもよくなっていることもあって、古いだけでなくありていにいって汚い 埃がふりつもっているなんていうのはまだいい方で、破れた襖や障子は猫がいるからという理由で替えられることなく、台所や浴室など最低限清潔であってほしい部分すら不潔としかいいようのない状態だった 使われていない部屋という部屋には、収集癖のある父が買い集めたまま放ってある本、ビデオ、DVDが山と積まれ、戸棚という戸棚は旅行の土産物やらもらい物であろうどうでもいい感じの置物や人形といった、昭和の香り芬芬たる不用品で溢れかえっている わたしは十代半ばでこの家を出たが、ほかの家族全員は変わることなく住み続けているので、彼らの中では時間はそのころからすっかり止まってしまっていて、家がどんなに古く汚くなっても、気づかないかのようだ 時たま導入される最新型の電化製品(薄型テレビやらWiiやら)だけがかろうじて時間の経過を物語っているが、それらの新しすぎるモノたちがボロボロの家の中に鎮座している姿は、たまに外国から帰ってくる自分の目には異様に映る

現在の母と弟の生活は、寝たきりの父の介護を中心に回っている 父が寝ている部屋から昼夜かまわずおおいと呼ぶたびに、ふたりはそれまでしていたことを放り出して駆けつける 夜中など、わたしたちは彼の部屋の真上に寝ていたので、普通のトーンのおおいという呼びかけに始まり、弟と母が起きないとさらに声が大きくなり、5分10分経つころには30秒間隔のスヌーズでどうなっとるんやあと絶叫が始まるのを聞き、こんなことに耐える必要があるのか、これでは母と弟の負担が大きすぎるのではないかと思っていた しかし―実際に彼らが起きられないほど疲れているときに代わって父の部屋に行ってみて気づいたことだが―父が彼らを呼びつける用事の大半は、ベッドやエアコンの操作など手元にリモコン類があれば自分でもできること、もしくは猫の出入りする扉を開けておけなど、悪いがくだらないとしかいいようのないことである だから自分を犠牲にして寝たきりの人間のために立ち働く家族、という図式とはちょっと違うようだ 
見たところ父の健康状態は去年よりすこぶるよく、車椅子で食堂まで来て食事することもできるようになっているくらいだ だから、あれこれと世話を焼かせるのは身体的な問題というより、父がもともと我侭な性格で他人に至れりつくせりしてもらうことに慣れているのが災いしているように思える 第一毎日1時間は看護士も来ているし、24時間体制で何も自分のことをできずに父を看ている必要は、そもそもない にもかかわらず生活のフォーカスを父の世話だけにおいている母と弟は、どちらもストレスをため調子が悪そうで、皮肉なことに、父のいる部屋を覗くことは一日のうち一瞬たりともなく、彼が寝たきりであるということ自体認識に上らないらしい兄は、日々黙々と仕事をし休みの日にはせっせと遊びに出かけ、家族のうちで一人だけ生活をエンジョイしているように見える

家の中がしっちゃかめっちゃかになっているのは、母の家事のありえないほどの非効率性にもよっている もっとこうしたら楽になるのにと教えても、頑として今まで何十年もそうしてきた、わたしの目には時間と労力の無駄にしか見えないやり方をやめない 例を挙げればきりがないが、雪がちらつく日に外に洗濯物を干そうとしたり、朝5時に起きて兄の弁当を作ってから、2時間後にまたまったく別の献立で他の全員の食事を作ろうとするなどだ 

しかしそこには、単に効率が悪い以上の何かがあるようだ ふだん離れて暮らしていて、電話で話すたびにこちらが話しているのにいきなり切られたりして、どうしてこの人にはこんなに話が通じないんだろう、耳が遠いせいだろうかと思っていたが、いざ実家に帰って面と向かって話してみたら、やっぱりまともな会話というものがほぼ成立しない 何か質問しても、まったく関係のない答えが帰ってきたり、人に言われたことを勝手に曲解してわけのわからないストーリーを組み立てたりする たとえば、叔母がりんごをくれて、「このりんごは固めなので甘く煮て食べるとおいしい。甘煮は電子レンジを使ってもやることができる」と言ったところ、彼女の頭の中でそれは「このりんごは固いので電子レンジで加熱しないと食べられない」に変換され、朝台所に行くと一生懸命カットしたりんごを電子レンジにかけようとしていた(しかも三十年ほど前に我が家に導入された電子レンジの使い方が今でもわからないため、アルミホイルでりんごを包んだ上でなぜか「酒のかん」モードで温めようとしていた)  また、弟の誕生日の朝、食卓で「今日は○○の誕生日だよ」というと、「あ、うん」と一言 弟も目の前にいるのだが、おめでとうとかそれに類した言葉は一切出てこない この手のことは昔から多い人ではあったが、近頃は輪をかけてひどくなっている 落ち着きがなく、何かしている最中で別のことを思い出してはそちらに没頭しはじめ、食事の最中などにもそれをするので、永遠に食べ終わることができない 身なりや行動にもまったく構わなくなってしまって、ひどいときはトイレを汚しても気づかずにそのままにして出てきてしまったりなどということもあった そんなこんなで、母とやり取りしようとするとあまりにもフラストレーションがたまるので、ほとんど叱りつけるようになってしまうこともしばしばだった

今になって言うのも何だが、母もどうも兄と同じように何らかの発達障害がある人なのではないかと思う  症状としては認知症の入り口のように見えなくもないが、どちらかといえばもともと持っていた何かが、高齢と今の生活のあり方のために悪化しているような感じだ 弟にしてもそうだが、社会的つながりもほとんどなく父の面倒だけ見て暮らしていることが、母の精神状態にも明らかに悪影響を与えているように思える 以前に精神疾患で入院したというのも、周りが障害に気づいていないことで事態が悪化してしまったのかもしれない

そんなわけで実家に帰ったものの、育児の手伝いなどは母からは何一つ期待できる状況ではなかった 夫のお母さんがやりすぎるくらいに世話をしてくれたのの反動で、何でも自分でできるという気持ちは持って実家に帰ったけれど、その状況と正反対に、実の母親がまるで子どもの面倒を見られず、同じ女性としての経験を共有できる瞬間がまずないのは、悲しいとしかいいようがない
母は孫娘のことは非常にかわいがってくれ、部屋にいるとあやしたり遊んだりしようとはしてくれるが、父に呼ばれたりするとそちらにかかりきりになってしまうし、少しでもぐずり出すとお手上げ状態になってしまうのだった お腹が空いているかもしれないとかオムツが濡れているかもしれないとかいったことには、まず想像が及ばないらしい 実際、オムツについては、自分の子じゃないから換えられないと言い放った(実際のところは、何かへまをしてわたしに叱られるのが怖いからやりたくなかったのだろう) 抱っこをさせれば、赤ん坊の抱き方などまるで忘れてしまったかのように、頭をきちんと支えずに今にも落っことしそうな姿勢でするので、見ている側が気が気でない 結局、娘を母に1、2時間預けて外に出るなどは夢のまた夢だった 一応母は曲がりなりにも3人の子どもを育てたことになっているはずだが、どうだろう、もしかしたら祖母や父が多くのことをしていたのかもしれない 考えてみると小さい頃母親と何かした記憶がほとんどないのは、実はそういうわけだったのだろうか

それでも、孫をかわいがってくれる親がいるという事実はありがたく受け止めなくてはならないのだろう 母が娘をあやそうとして、小学1年生の音楽の教科書(元教師だったので)を開いては、調子外れの童女のような声で、歌詞を読みながらにも関わらず軽く1、2小節はすっ飛ばしながら繰り返し繰り返し「アイアイ」を歌ったり、娘の気をを引こうとしてどうしたらいいかわからずに手にたまたま持っていたビニールの巾着をブンブン振り回したりしているさまを見ていると、何だか狂気の沙汰のようでもあるが、こんな時間が止まったような家にいた自分が新しい家族を作り、孫の顔を親に見せることができたこと自体、奇跡みたいなもんであるということは心に留めておかなくてはいけない 

そういえば家が散らかりすぎていたのと忙しすぎたので、帰ったら飾ろうと思っていた、むかし祖父が買ってくれた雛壇を出すことはついにできなかった 次に帰るときには、飾ることができるだろうか

1/24/2012

恐怖のひき肉

アラバマに越してきてそろそろひと月、娘は毎日よく食べ、ふくふくと育っている 本当なら一日中ずっと娘と遊んでいたいところだが、そろそろ博論再開しないといけないので、涙を飲んで文献読んでいる 

娘の世話は夫のお母さんがしてくれるので、それはいいのだが、もう彼女が娘にべったりで逆に困るほどだ 朝自分たちの部屋で授乳して、その後ミルクを取りにキッチンに娘を抱いて行こうものなら、両手広げて待ちかまえている 「忙しそうだから代わりにやろうか?」という聞き方をされるのだが、その実自分が娘といたいのがあまりにも明らかだし、こっちはいやだとは言えない訳だから、少しずるいと思う そんなわけで日中は基本的に、グランマのデイケア状態、一緒にいられるのは授乳中だけで、終わったら両手広げて待たれているのでろくに遊んだりなどできない(一度などは授乳中に部屋の前まで来てどれくらいかかる?って聞くので、あと20分くらい、と答えたら、キッチンタイマーセットして待っていた 笑) 向こうも悪気はなくて、手の込んだ意地悪とかするタイプの人でもないし、純粋に助けようとしてくれている部分も多分にあるのだが、こうやって引いた目で書けるようになるまでには、わたしの中ではそりゃもうさまざまな感情が渦巻いて大変だった まじでPPDかと思ったわ

こんな流れになっている根底には料理問題がある 年末に引っ越してきた当初、お母さんはフロリダでの展開をすべて忘れたかのように、正月気分とか限りなく無視で牛ひき肉料理を連続で用意した(しかも同じ料理のローテーション) 付け合せの野菜はもちろん全部缶詰、しかも缶の中身を鍋にぶちまけて温めただけのが、水気も切らないまま出てくる感じとあって、あ、こりゃやっぱだめだ、となる せめて何かもうちょっとバラエティのある食材を買いたそうと、お金だけもらって買い出しも代行するが、行く前に何か買ってくるものある?と聞くと、
母:「ええと、そうね、牛ひき肉。」 
...。 幸いその場では夫が「冗談だろ。」とわたしの気持ちを120%代弁してくれたため買わずに済んだが、結局あとでお母さん、こっそり買い物に行きひき肉買い足していた 笑 なんか彼女は、有り合わせで適当に料理するということができない人で、急にその日になって料理を頼むと、文字通りパニックに陥るのである 自分のよく知っている材料(主にひき肉、たまにポークチョップ、ソーセージ)を事前から準備しておいて半日がかりで料理するっていうのしかできないらしい それだと結局、同じものばかり食べ続けることになる ということでやっぱり、わたしが基本的に料理することになった

そんなある日、アル中のJ叔母からお母さんに電話があり、娘を見たいから、一家で週末パイを持ってやってくるという なんとなく流れ的にこちらが食事を用意するらしい、とお母さんは言うのだが、もちろん自分が料理したくないのは明らかなので、これまたなんとなく流れ的にわたしが料理することになる 「前に作ってくれたあの豚肉の料理(とんかつのこと)はおいしかったからあれ作れば?」と提案されるが、日本料理に慣れてないどころではない叔母一家に、主菜、ごはん、味噌汁、みたいなメニューを出すのは正直ハードル高すぎると思い、かといって、とんかつを始めとした一品料理を6人分とか作るのは負担が大きすぎる というわけで、苦心の末酢豚と炒飯とクラブラングーン(こっちのチャイニーズでよく出てくる、ワンタンの皮にクリームチーズと蟹または蟹かまをつつんで揚げたもの)を作ることにした 

ともあれ、前日になって夫がおばさん明日何時に来るの、とお母さんに聞くと、「え?わからない たぶん午後じゃない?」と ディナーを準備すると思っていた夫はわからないって何だ、とキレるが、わたしは実はこの展開予想していたので、黙々と酢豚の材料を切り刻み、豚肉に下味をつけて次の日に備えた(3時間に一回授乳なので、準備はできるうちにしておかないと時間がまるでない) で、当日、起きて、授乳して、あとはもう黙々と料理し、あとはクラブラングーンを揚げるだけ、というところで、叔母から電話 「えっもうご飯食べちゃったよ!何も作らなくていいって言ったのに」って、まーじーでー! 結局、ほぼわたしの面目を保つためだけにクラブラングーンをスナックがわりに出したら受けたようで、叔母は酢豚にも興味を示して豚肉だけ全部食べて帰った 笑 しかし丸く収まったとはいえ、この一件にはさすがにげんなりきた

ずっと料理しているのもそれはそれはストレスなのだ 料理して食べたら一時間半はロスするし、授乳の合間を縫って他のこともしなきゃいけない 大体料理している間、お母さんは娘と遊んでるわけで、なんやら割に合わない 遊ぶのならわたしにだってできるっていうか、むしろそっちをやりたいよ的な 結局彼女は料理ができないので、ますます自分の使命は孫と遊ぶこと、とばかりにそっちに邁進してしまう
で、試行錯誤の末、一日置きに交代で料理しようと今朝提案してみた お母さんの料理も、わたしらがけっこううるさいので徐々に改善されてきている(気はする)し、これがいろんな意味での妥協点だと思う

この一件でかなりわたしも疲弊したのだが、何か学んだことがあるとすれば、どうやら自分は料理がうまいらしい、ということだ(単に比較の問題かもしれないが。。。) あと、ホームステイ先の料理がまずくてしんどいって言う留学生の気持ちが、ちょっとわかったような気がする 笑 まあ諸々のこともあと一ヶ月の辛抱(3月にはわたしらが日本に行き、お母さんは韓国に帰るため)だから、耐えるしかないかな

1/18/2012

ある日、南アラバマにて

自嘲気味に気に入っているシンプソンズのエピソードに、大学院生についてのものがある
カートが大学院生をバカにしているのをマージがたしなめて、"Don't make fun of grad students--they just made a terrible life choice" というのだ(下記参照)



この前唇がひどく荒れてガサガサになり、ふつうのリップバームでは全然効果なくてかぶれたようになったので、(またしても)ウォークインクリニックに行くことにした ネットで調べたら、ドクター・グプタと言ってなんやらインド系のお医者さんらしい この医者にはおばあさんが一回かかったことがあり、何にもしてくれなかった!と文句たらたらだったが、まあ他に選択肢もないし、と娘を夫のお母さんに預け、授乳時間の合間を縫って出かけることにした

道すがらマージの台詞を思い出しつつ、確かに自分たちは大学院なんか行っちゃって人生の選択を誤ったよな~と、冗談まじりに話しているうちにクリニックに着く 12時半くらいだったが、窓口に行くと、「ドクター・グプタは2時まで戻りません」と オフィスアワー9時から5時までって書いてあるのにいないんかい、とさっそくイラッとして、もう今日は諦めようかなあと車に戻ると、エンジンがかからない 

うちの車は電気系統がいかれていて、時々セキュリティロックがかかってエンジンがかからないことがあったのだが、去年だったかこの件で修理に出したので、もうすっかり直ったと思っていたのに、また壊れたみたいだ 修理に出す前はよく、夫がエンジンの蓋を開けて、誰かにアクセルを踏ませつつスクリュードライバーをどこやらに差し込み火花を散らせてエンジンをかける、という原始的すぎる方法を取っていたのだが、さすがにもう直ったと思っていたので今日はスクリュードライバー用意してないと言う 笑

しかし、夫曰く、この症状はしばらく待っていると直ることがあるらしい 以前夫とAがモールに行ったときにも動かなくなったけど、ペットショップで暇つぶしてまったく予定外に熱帯魚とか買ってる間に直ったという というわけで、他にどうしようもないので、近くで何か食べて2時まで待ってドクター・グプタに会うことした 授乳時間までに帰れないので、娘にはミルクをあげるように夫のお母さんに電話で頼む 

クリニックが入っているストリップモールには飲食店らしきものはないので、なんかこのイベント自体が貧乏院生生活のパロディみたいだよな~、とか言いながら、とぼとぼと道を歩いていくと、Chick & Sea Restaurantの文字と、間の抜けたグーグーガンモみたいな鶏と魚の躍る看板が視界に入ってくる そのローファイ加減に、思わずへらへらと力の抜けた笑いが漏れる 見るからに鄙びた感じのレストランで、フライドチキンやシーフードを使った家庭料理の店のようである 周りにはほかにサブウェイしか見当たらないし、これも何かの縁だからというわけで、吸い寄せられるようにして入っていってみると、中はお年寄りで超満員であった 老人の群れに混じり、夫はシュリンプポーボーイ、わたしはオイスターポーボーイを食べ、デザートにぺカンパイも頼んだ それなりにいける味だ ゆっくりと食事して1時を過ぎたころあたりを見回すと、店一杯にいたじーさんばーさんたちが忽然と消えている お年寄りは実に規則正しい生活を送っているようだ

レストランを出て車に戻ると、エンジンがかかった!この機を逃してはならんと、夫には家に帰って別の車を持ってきてもらい、わたしはドクター・グプタに会う たしかにインド系のおっちゃんだったが、診察が30秒で終了したため特筆すべきこともなく、処方箋をもらって帰る 帰りはおばあさん(クリスマスで帰国した夫のお父さんにくっついて韓国に行ってしまいいないのだが、それはまた別の話)の車に乗ったが、走ってる間中ずっとただならぬ異音を立てていたので、どっちかっていうとこの車のほうがやばいんじゃないのという感じだった トラブルのない車には、どうやら縁がないらしい