今わたしが住んでいるのは夫の母方の一族が住む小さな町である 彼らの一族を含めこの町に住む人たちの多くは、スペイン系フランス系を先祖に持つクリオールと呼ばれる人たちである
クリオールと一口にいっても、ここらの人はルイジアナのクリオールやカリビアンのクリオールとはまた違った文化を持っている もともとの先祖はモビールという町に殖民したスペイン系フランス系の人たちらしいが、どのようにしてここに彼らの共同体が作られたのかという過程はあまり明らかではない その容姿から、おそらく共同体を建てる過程でアフリカ系やネイティブアメリカンと混血してきたのだろうということだけは推測される
長年近隣の大きな共同体と隔絶した辺境で近親婚を続けてきたクリオールは、白人でも黒人でもインディアンでもない、「クリオール」としか言いようのない特徴ある容姿を保つようになった 今の世代は非クリオールの人と結婚する人も増えているので、見るからにクリオール、といった感じではない人も増えているが、多くの人はどちらかといえば背が低く肌色は浅黒く、髪の色は暗く、アフリカ系の血を感じさせるカーリーヘアの人と、ネイティブ風の真っ黒な直毛の人とに分かれている 日本人のわたしからしたら、それでも彼らは肌の浅黒い白人という感じなのだが、南部的文脈では混血、非白人ということで差別も受けてきたようだ この前、1949年に出版されたDown in Creole Country という雑誌の記事を読んでいたら、クリオールの学校の写真というのが出てきたが、そこに写っている子どもたちは半分はクリオール、半分はアフリカ系という感じで、要は白人の学校に行くことができない子たちが集められていたのだということがわかる(当然だが当時の南部は人種隔離の時代である)
もともとスペイン系フランス系がルーツだけに、クリオールの多くはカトリック教徒であり、小さな共同体で暮らす彼らの生活の中心は教会である うちの夫の母方の親族も、ここに残って暮らしている人たちは信心深い人たちが多い 夫の母は元尼僧であるし、お母さんの弟の一人、Cおじさんは神父である
Cおじさんは8人きょうだいの末っ子で、年の頃は50代ぐらいではないかと思う 若い頃はバンドマンだったらしいが、奥さんを病で亡くしたときに信仰に再度目覚めて神父になったらしい そのせいか神父と言っても堅苦しいところがなく人を笑わせるのも好きな、陽気で豪快なおっさんである 陽気なのはいいが、しばしばPC的にちょっとアレな発言が多いので、神父みたいに喋ることを生業にしているといろいろ角が立つことが多いのではないかとこちらがヒヤヒヤする
この前ひょっこり家に遊びに来ていったときは、プロテスタントの強い南部ではカトリックは差別されがちであるという話をして、ある日神父の服を来て保守的と言われるある町に出かけたら、赤の他人がいきなり彼のことをぺドファイルと呼んだ、ということをいった これだけ聞けば、神父稼業も楽ではないなあと同情したくもなるが、Cおじさんはその後付け加えて、「それでその後こびと(midget)に会って、腰を下ろして話しかけたら、俺のことを見下ろしたんだよなあ ぺドファイル呼ばわりされるし、こびとに見下ろされるし、ついてない日だったなあガッハッハ」などと言うので、神妙な気持ちもぶっ飛んでしまうのだった
また、皮肉なことに非カトリックであるわたしだけがバチカンに旅行で行ったことがあるという話をしていたときも、 「写真取った?」と聞くので、「取った取った」と答えると、「pagan pictures?ガッハッハ」という もはや笑うところなのかどうなのかよくわからない ちなみにCおじさんはわたしが英語が話せないと思っていて、その先入観のためにわたしが何を言っても9割方聞き取れない(自分の英語にアクセントがないとは言わないが、いくらなんでもそこまでひどくはない) おじさんは憎めない人なので、腹は別に立たないし、わたしはわたしでアクセントの問題とは関係なく、あんまり彼が言っていることの内容がよくわからないため、わたしたちふたりの間ではあまりコミュニケーションが成り立たず、傍から見るとほとんどコントのようになっている
ともあれ、Cおじさんはわたしがカトリックでないということについていろいろと思いを馳せていたようで、今回の来訪では繰り返し、わたしが改宗しようと思えばいつでもできる、ということを言って帰っていった なぜ改宗してもらいたいかと言えば、これだけカトリック信仰が生活の基礎になっている一族と結婚し、今はたまたまここに住んでもいるんだから、というがまずあるのだろうし、娘が生まれたから、娘にも洗礼を受けさせたいのだろう カトリックでないpaganである以上、わたしは地獄に落ちることになっていて、一応家族になった人が地獄に落ちるのはやっぱりまずいのかもしれない
しかし、これはCおじさんには言わなかったが、正直にいって、わたしは地獄に落ちようが何しようが別にどうでも構わないのだ わたしは夫の母方の文化的伝統には敬意を払っているが、それだけが理由で形式的に改宗することに意味を見出せない また、もし夫が娘に洗礼を受けさせたいと言えば、それはもちろんそうしてもらってよいのだが、夫自身毎週教会に行くわけでもなく、多くの教理を時代錯誤に過ぎないと思っているわけで、それなのに形式だけ洗礼を済ませる(そしてその後二度と教会に戻らない)のはアホらしいと言う
この問題何がややこしいかというと、わたしたち夫婦は法的には結婚しているが、カトリックの教義ではカトリック教徒と非カトリックは結婚できないため、教会の元ではわたしたちは結婚していないことになっている もし結婚しようとすれば、わたしは何ヶ月もかけて教理を学んだり、さまざまな複雑な手続きを得なければならない Cおじさん曰く、これもすっ飛ばして紙ペラ一枚提出すればどうにかなるという 神父がそういうのだからできるのかもしれないが、果たしてそうすることがいいことなのだろうか また娘の洗礼に関しても、夫によれば正式には、子どもを洗礼するためには少なくとも両親のうちは片方がカトリックでなくてはいけないし、少なくともふたりともクリスチャンでなくてはいけない これもCおじさんは、大丈夫大丈夫と言うが、どうなのだろうか
カトリックにはそれはそれはたくさんのルールがある そしてルールのあるところには例外がある 現代に生きていると複雑怪奇な宗教上のルールを遵守することはもちろん難しい そのため何か制度上の矛盾が生じるところにはほとんどと言っていいほど例外事項が存在する たとえばカトリックで一番特徴的なのは離婚ができないことだが、離婚はできなくても結婚を無効化すること(annulmentという)は可能なのである 実際夫の一族でも、教会の元で結婚したけれど、その後離婚した(法的に離婚して教会ではannulmentの手続きを経たということだろう)人は山ほどいる
夫にしたら、これら一連の例外事項がご都合主義にしか見えず、できないことは始めからしなければいいのに、なぜ例外を設けてまでルールを守っている振りをするのかよくわからないらしい paganたるわたしはどっちにしろ蚊帳の外なので、なんだかなんというか、どっちでもよい どっちでもよいが、もし仮に娘が洗礼を受けた場合(おそらくしないだろうが)、家族の中でお母さんだけ地獄に行くということを、彼女がどのように受け止めるのだろうかとは、ぼんやり思うのだった
4/20/2012
4/08/2012
時が止まった家
一ヶ月ほど家族で日本に一時帰国していた 帰国中は家事手伝いと育児に明け暮れて完全に他のことを何一つできないうちに時間が過ぎてしまい、ブログをアップするどころか一日五分間のメールチェック以上の用途でパソコンを使うこと自体がなかった
実家に帰ったのは母が足の手術を終え退院し、それに合わせて病院に入っていた寝たきりの父も家に戻ったばかりというタイミングだったが、久しぶりに戻ってみると家もそこに住む人々もかなりとっちらかった状態になっていた
実家はわたしが生まれる前に建てられ、たしか7歳くらいの頃に一部建て増しされたのだったと思うが、近年そこここがもはやどうしようもないまでに老朽化し、またそこに住む人間たちが、もう家をきれいに保つということ自体どうでもよくなっていることもあって、古いだけでなくありていにいって汚い 埃がふりつもっているなんていうのはまだいい方で、破れた襖や障子は猫がいるからという理由で替えられることなく、台所や浴室など最低限清潔であってほしい部分すら不潔としかいいようのない状態だった 使われていない部屋という部屋には、収集癖のある父が買い集めたまま放ってある本、ビデオ、DVDが山と積まれ、戸棚という戸棚は旅行の土産物やらもらい物であろうどうでもいい感じの置物や人形といった、昭和の香り芬芬たる不用品で溢れかえっている わたしは十代半ばでこの家を出たが、ほかの家族全員は変わることなく住み続けているので、彼らの中では時間はそのころからすっかり止まってしまっていて、家がどんなに古く汚くなっても、気づかないかのようだ 時たま導入される最新型の電化製品(薄型テレビやらWiiやら)だけがかろうじて時間の経過を物語っているが、それらの新しすぎるモノたちがボロボロの家の中に鎮座している姿は、たまに外国から帰ってくる自分の目には異様に映る
現在の母と弟の生活は、寝たきりの父の介護を中心に回っている 父が寝ている部屋から昼夜かまわずおおいと呼ぶたびに、ふたりはそれまでしていたことを放り出して駆けつける 夜中など、わたしたちは彼の部屋の真上に寝ていたので、普通のトーンのおおいという呼びかけに始まり、弟と母が起きないとさらに声が大きくなり、5分10分経つころには30秒間隔のスヌーズでどうなっとるんやあと絶叫が始まるのを聞き、こんなことに耐える必要があるのか、これでは母と弟の負担が大きすぎるのではないかと思っていた しかし―実際に彼らが起きられないほど疲れているときに代わって父の部屋に行ってみて気づいたことだが―父が彼らを呼びつける用事の大半は、ベッドやエアコンの操作など手元にリモコン類があれば自分でもできること、もしくは猫の出入りする扉を開けておけなど、悪いがくだらないとしかいいようのないことである だから自分を犠牲にして寝たきりの人間のために立ち働く家族、という図式とはちょっと違うようだ
見たところ父の健康状態は去年よりすこぶるよく、車椅子で食堂まで来て食事することもできるようになっているくらいだ だから、あれこれと世話を焼かせるのは身体的な問題というより、父がもともと我侭な性格で他人に至れりつくせりしてもらうことに慣れているのが災いしているように思える 第一毎日1時間は看護士も来ているし、24時間体制で何も自分のことをできずに父を看ている必要は、そもそもない にもかかわらず生活のフォーカスを父の世話だけにおいている母と弟は、どちらもストレスをため調子が悪そうで、皮肉なことに、父のいる部屋を覗くことは一日のうち一瞬たりともなく、彼が寝たきりであるということ自体認識に上らないらしい兄は、日々黙々と仕事をし休みの日にはせっせと遊びに出かけ、家族のうちで一人だけ生活をエンジョイしているように見える
家の中がしっちゃかめっちゃかになっているのは、母の家事のありえないほどの非効率性にもよっている もっとこうしたら楽になるのにと教えても、頑として今まで何十年もそうしてきた、わたしの目には時間と労力の無駄にしか見えないやり方をやめない 例を挙げればきりがないが、雪がちらつく日に外に洗濯物を干そうとしたり、朝5時に起きて兄の弁当を作ってから、2時間後にまたまったく別の献立で他の全員の食事を作ろうとするなどだ
しかしそこには、単に効率が悪い以上の何かがあるようだ ふだん離れて暮らしていて、電話で話すたびにこちらが話しているのにいきなり切られたりして、どうしてこの人にはこんなに話が通じないんだろう、耳が遠いせいだろうかと思っていたが、いざ実家に帰って面と向かって話してみたら、やっぱりまともな会話というものがほぼ成立しない 何か質問しても、まったく関係のない答えが帰ってきたり、人に言われたことを勝手に曲解してわけのわからないストーリーを組み立てたりする たとえば、叔母がりんごをくれて、「このりんごは固めなので甘く煮て食べるとおいしい。甘煮は電子レンジを使ってもやることができる」と言ったところ、彼女の頭の中でそれは「このりんごは固いので電子レンジで加熱しないと食べられない」に変換され、朝台所に行くと一生懸命カットしたりんごを電子レンジにかけようとしていた(しかも三十年ほど前に我が家に導入された電子レンジの使い方が今でもわからないため、アルミホイルでりんごを包んだ上でなぜか「酒のかん」モードで温めようとしていた) また、弟の誕生日の朝、食卓で「今日は○○の誕生日だよ」というと、「あ、うん」と一言 弟も目の前にいるのだが、おめでとうとかそれに類した言葉は一切出てこない この手のことは昔から多い人ではあったが、近頃は輪をかけてひどくなっている 落ち着きがなく、何かしている最中で別のことを思い出してはそちらに没頭しはじめ、食事の最中などにもそれをするので、永遠に食べ終わることができない 身なりや行動にもまったく構わなくなってしまって、ひどいときはトイレを汚しても気づかずにそのままにして出てきてしまったりなどということもあった そんなこんなで、母とやり取りしようとするとあまりにもフラストレーションがたまるので、ほとんど叱りつけるようになってしまうこともしばしばだった
今になって言うのも何だが、母もどうも兄と同じように何らかの発達障害がある人なのではないかと思う 症状としては認知症の入り口のように見えなくもないが、どちらかといえばもともと持っていた何かが、高齢と今の生活のあり方のために悪化しているような感じだ 弟にしてもそうだが、社会的つながりもほとんどなく父の面倒だけ見て暮らしていることが、母の精神状態にも明らかに悪影響を与えているように思える 以前に精神疾患で入院したというのも、周りが障害に気づいていないことで事態が悪化してしまったのかもしれない
そんなわけで実家に帰ったものの、育児の手伝いなどは母からは何一つ期待できる状況ではなかった 夫のお母さんがやりすぎるくらいに世話をしてくれたのの反動で、何でも自分でできるという気持ちは持って実家に帰ったけれど、その状況と正反対に、実の母親がまるで子どもの面倒を見られず、同じ女性としての経験を共有できる瞬間がまずないのは、悲しいとしかいいようがない
母は孫娘のことは非常にかわいがってくれ、部屋にいるとあやしたり遊んだりしようとはしてくれるが、父に呼ばれたりするとそちらにかかりきりになってしまうし、少しでもぐずり出すとお手上げ状態になってしまうのだった お腹が空いているかもしれないとかオムツが濡れているかもしれないとかいったことには、まず想像が及ばないらしい 実際、オムツについては、自分の子じゃないから換えられないと言い放った(実際のところは、何かへまをしてわたしに叱られるのが怖いからやりたくなかったのだろう) 抱っこをさせれば、赤ん坊の抱き方などまるで忘れてしまったかのように、頭をきちんと支えずに今にも落っことしそうな姿勢でするので、見ている側が気が気でない 結局、娘を母に1、2時間預けて外に出るなどは夢のまた夢だった 一応母は曲がりなりにも3人の子どもを育てたことになっているはずだが、どうだろう、もしかしたら祖母や父が多くのことをしていたのかもしれない 考えてみると小さい頃母親と何かした記憶がほとんどないのは、実はそういうわけだったのだろうか
それでも、孫をかわいがってくれる親がいるという事実はありがたく受け止めなくてはならないのだろう 母が娘をあやそうとして、小学1年生の音楽の教科書(元教師だったので)を開いては、調子外れの童女のような声で、歌詞を読みながらにも関わらず軽く1、2小節はすっ飛ばしながら繰り返し繰り返し「アイアイ」を歌ったり、娘の気をを引こうとしてどうしたらいいかわからずに手にたまたま持っていたビニールの巾着をブンブン振り回したりしているさまを見ていると、何だか狂気の沙汰のようでもあるが、こんな時間が止まったような家にいた自分が新しい家族を作り、孫の顔を親に見せることができたこと自体、奇跡みたいなもんであるということは心に留めておかなくてはいけない
そういえば家が散らかりすぎていたのと忙しすぎたので、帰ったら飾ろうと思っていた、むかし祖父が買ってくれた雛壇を出すことはついにできなかった 次に帰るときには、飾ることができるだろうか
実家に帰ったのは母が足の手術を終え退院し、それに合わせて病院に入っていた寝たきりの父も家に戻ったばかりというタイミングだったが、久しぶりに戻ってみると家もそこに住む人々もかなりとっちらかった状態になっていた
実家はわたしが生まれる前に建てられ、たしか7歳くらいの頃に一部建て増しされたのだったと思うが、近年そこここがもはやどうしようもないまでに老朽化し、またそこに住む人間たちが、もう家をきれいに保つということ自体どうでもよくなっていることもあって、古いだけでなくありていにいって汚い 埃がふりつもっているなんていうのはまだいい方で、破れた襖や障子は猫がいるからという理由で替えられることなく、台所や浴室など最低限清潔であってほしい部分すら不潔としかいいようのない状態だった 使われていない部屋という部屋には、収集癖のある父が買い集めたまま放ってある本、ビデオ、DVDが山と積まれ、戸棚という戸棚は旅行の土産物やらもらい物であろうどうでもいい感じの置物や人形といった、昭和の香り芬芬たる不用品で溢れかえっている わたしは十代半ばでこの家を出たが、ほかの家族全員は変わることなく住み続けているので、彼らの中では時間はそのころからすっかり止まってしまっていて、家がどんなに古く汚くなっても、気づかないかのようだ 時たま導入される最新型の電化製品(薄型テレビやらWiiやら)だけがかろうじて時間の経過を物語っているが、それらの新しすぎるモノたちがボロボロの家の中に鎮座している姿は、たまに外国から帰ってくる自分の目には異様に映る
現在の母と弟の生活は、寝たきりの父の介護を中心に回っている 父が寝ている部屋から昼夜かまわずおおいと呼ぶたびに、ふたりはそれまでしていたことを放り出して駆けつける 夜中など、わたしたちは彼の部屋の真上に寝ていたので、普通のトーンのおおいという呼びかけに始まり、弟と母が起きないとさらに声が大きくなり、5分10分経つころには30秒間隔のスヌーズでどうなっとるんやあと絶叫が始まるのを聞き、こんなことに耐える必要があるのか、これでは母と弟の負担が大きすぎるのではないかと思っていた しかし―実際に彼らが起きられないほど疲れているときに代わって父の部屋に行ってみて気づいたことだが―父が彼らを呼びつける用事の大半は、ベッドやエアコンの操作など手元にリモコン類があれば自分でもできること、もしくは猫の出入りする扉を開けておけなど、悪いがくだらないとしかいいようのないことである だから自分を犠牲にして寝たきりの人間のために立ち働く家族、という図式とはちょっと違うようだ
見たところ父の健康状態は去年よりすこぶるよく、車椅子で食堂まで来て食事することもできるようになっているくらいだ だから、あれこれと世話を焼かせるのは身体的な問題というより、父がもともと我侭な性格で他人に至れりつくせりしてもらうことに慣れているのが災いしているように思える 第一毎日1時間は看護士も来ているし、24時間体制で何も自分のことをできずに父を看ている必要は、そもそもない にもかかわらず生活のフォーカスを父の世話だけにおいている母と弟は、どちらもストレスをため調子が悪そうで、皮肉なことに、父のいる部屋を覗くことは一日のうち一瞬たりともなく、彼が寝たきりであるということ自体認識に上らないらしい兄は、日々黙々と仕事をし休みの日にはせっせと遊びに出かけ、家族のうちで一人だけ生活をエンジョイしているように見える
家の中がしっちゃかめっちゃかになっているのは、母の家事のありえないほどの非効率性にもよっている もっとこうしたら楽になるのにと教えても、頑として今まで何十年もそうしてきた、わたしの目には時間と労力の無駄にしか見えないやり方をやめない 例を挙げればきりがないが、雪がちらつく日に外に洗濯物を干そうとしたり、朝5時に起きて兄の弁当を作ってから、2時間後にまたまったく別の献立で他の全員の食事を作ろうとするなどだ
しかしそこには、単に効率が悪い以上の何かがあるようだ ふだん離れて暮らしていて、電話で話すたびにこちらが話しているのにいきなり切られたりして、どうしてこの人にはこんなに話が通じないんだろう、耳が遠いせいだろうかと思っていたが、いざ実家に帰って面と向かって話してみたら、やっぱりまともな会話というものがほぼ成立しない 何か質問しても、まったく関係のない答えが帰ってきたり、人に言われたことを勝手に曲解してわけのわからないストーリーを組み立てたりする たとえば、叔母がりんごをくれて、「このりんごは固めなので甘く煮て食べるとおいしい。甘煮は電子レンジを使ってもやることができる」と言ったところ、彼女の頭の中でそれは「このりんごは固いので電子レンジで加熱しないと食べられない」に変換され、朝台所に行くと一生懸命カットしたりんごを電子レンジにかけようとしていた(しかも三十年ほど前に我が家に導入された電子レンジの使い方が今でもわからないため、アルミホイルでりんごを包んだ上でなぜか「酒のかん」モードで温めようとしていた) また、弟の誕生日の朝、食卓で「今日は○○の誕生日だよ」というと、「あ、うん」と一言 弟も目の前にいるのだが、おめでとうとかそれに類した言葉は一切出てこない この手のことは昔から多い人ではあったが、近頃は輪をかけてひどくなっている 落ち着きがなく、何かしている最中で別のことを思い出してはそちらに没頭しはじめ、食事の最中などにもそれをするので、永遠に食べ終わることができない 身なりや行動にもまったく構わなくなってしまって、ひどいときはトイレを汚しても気づかずにそのままにして出てきてしまったりなどということもあった そんなこんなで、母とやり取りしようとするとあまりにもフラストレーションがたまるので、ほとんど叱りつけるようになってしまうこともしばしばだった
今になって言うのも何だが、母もどうも兄と同じように何らかの発達障害がある人なのではないかと思う 症状としては認知症の入り口のように見えなくもないが、どちらかといえばもともと持っていた何かが、高齢と今の生活のあり方のために悪化しているような感じだ 弟にしてもそうだが、社会的つながりもほとんどなく父の面倒だけ見て暮らしていることが、母の精神状態にも明らかに悪影響を与えているように思える 以前に精神疾患で入院したというのも、周りが障害に気づいていないことで事態が悪化してしまったのかもしれない
そんなわけで実家に帰ったものの、育児の手伝いなどは母からは何一つ期待できる状況ではなかった 夫のお母さんがやりすぎるくらいに世話をしてくれたのの反動で、何でも自分でできるという気持ちは持って実家に帰ったけれど、その状況と正反対に、実の母親がまるで子どもの面倒を見られず、同じ女性としての経験を共有できる瞬間がまずないのは、悲しいとしかいいようがない
母は孫娘のことは非常にかわいがってくれ、部屋にいるとあやしたり遊んだりしようとはしてくれるが、父に呼ばれたりするとそちらにかかりきりになってしまうし、少しでもぐずり出すとお手上げ状態になってしまうのだった お腹が空いているかもしれないとかオムツが濡れているかもしれないとかいったことには、まず想像が及ばないらしい 実際、オムツについては、自分の子じゃないから換えられないと言い放った(実際のところは、何かへまをしてわたしに叱られるのが怖いからやりたくなかったのだろう) 抱っこをさせれば、赤ん坊の抱き方などまるで忘れてしまったかのように、頭をきちんと支えずに今にも落っことしそうな姿勢でするので、見ている側が気が気でない 結局、娘を母に1、2時間預けて外に出るなどは夢のまた夢だった 一応母は曲がりなりにも3人の子どもを育てたことになっているはずだが、どうだろう、もしかしたら祖母や父が多くのことをしていたのかもしれない 考えてみると小さい頃母親と何かした記憶がほとんどないのは、実はそういうわけだったのだろうか
それでも、孫をかわいがってくれる親がいるという事実はありがたく受け止めなくてはならないのだろう 母が娘をあやそうとして、小学1年生の音楽の教科書(元教師だったので)を開いては、調子外れの童女のような声で、歌詞を読みながらにも関わらず軽く1、2小節はすっ飛ばしながら繰り返し繰り返し「アイアイ」を歌ったり、娘の気をを引こうとしてどうしたらいいかわからずに手にたまたま持っていたビニールの巾着をブンブン振り回したりしているさまを見ていると、何だか狂気の沙汰のようでもあるが、こんな時間が止まったような家にいた自分が新しい家族を作り、孫の顔を親に見せることができたこと自体、奇跡みたいなもんであるということは心に留めておかなくてはいけない
そういえば家が散らかりすぎていたのと忙しすぎたので、帰ったら飾ろうと思っていた、むかし祖父が買ってくれた雛壇を出すことはついにできなかった 次に帰るときには、飾ることができるだろうか
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