4/20/2012

Cおじさん

今わたしが住んでいるのは夫の母方の一族が住む小さな町である 彼らの一族を含めこの町に住む人たちの多くは、スペイン系フランス系を先祖に持つクリオールと呼ばれる人たちである 

クリオールと一口にいっても、ここらの人はルイジアナのクリオールやカリビアンのクリオールとはまた違った文化を持っている もともとの先祖はモビールという町に殖民したスペイン系フランス系の人たちらしいが、どのようにしてここに彼らの共同体が作られたのかという過程はあまり明らかではない その容姿から、おそらく共同体を建てる過程でアフリカ系やネイティブアメリカンと混血してきたのだろうということだけは推測される 

長年近隣の大きな共同体と隔絶した辺境で近親婚を続けてきたクリオールは、白人でも黒人でもインディアンでもない、「クリオール」としか言いようのない特徴ある容姿を保つようになった 今の世代は非クリオールの人と結婚する人も増えているので、見るからにクリオール、といった感じではない人も増えているが、多くの人はどちらかといえば背が低く肌色は浅黒く、髪の色は暗く、アフリカ系の血を感じさせるカーリーヘアの人と、ネイティブ風の真っ黒な直毛の人とに分かれている 日本人のわたしからしたら、それでも彼らは肌の浅黒い白人という感じなのだが、南部的文脈では混血、非白人ということで差別も受けてきたようだ この前、1949年に出版されたDown in Creole Country という雑誌の記事を読んでいたら、クリオールの学校の写真というのが出てきたが、そこに写っている子どもたちは半分はクリオール、半分はアフリカ系という感じで、要は白人の学校に行くことができない子たちが集められていたのだということがわかる(当然だが当時の南部は人種隔離の時代である)

もともとスペイン系フランス系がルーツだけに、クリオールの多くはカトリック教徒であり、小さな共同体で暮らす彼らの生活の中心は教会である うちの夫の母方の親族も、ここに残って暮らしている人たちは信心深い人たちが多い 夫の母は元尼僧であるし、お母さんの弟の一人、Cおじさんは神父である

Cおじさんは8人きょうだいの末っ子で、年の頃は50代ぐらいではないかと思う 若い頃はバンドマンだったらしいが、奥さんを病で亡くしたときに信仰に再度目覚めて神父になったらしい そのせいか神父と言っても堅苦しいところがなく人を笑わせるのも好きな、陽気で豪快なおっさんである 陽気なのはいいが、しばしばPC的にちょっとアレな発言が多いので、神父みたいに喋ることを生業にしているといろいろ角が立つことが多いのではないかとこちらがヒヤヒヤする

この前ひょっこり家に遊びに来ていったときは、プロテスタントの強い南部ではカトリックは差別されがちであるという話をして、ある日神父の服を来て保守的と言われるある町に出かけたら、赤の他人がいきなり彼のことをぺドファイルと呼んだ、ということをいった これだけ聞けば、神父稼業も楽ではないなあと同情したくもなるが、Cおじさんはその後付け加えて、「それでその後こびと(midget)に会って、腰を下ろして話しかけたら、俺のことを見下ろしたんだよなあ ぺドファイル呼ばわりされるし、こびとに見下ろされるし、ついてない日だったなあガッハッハ」などと言うので、神妙な気持ちもぶっ飛んでしまうのだった 

また、皮肉なことに非カトリックであるわたしだけがバチカンに旅行で行ったことがあるという話をしていたときも、 「写真取った?」と聞くので、「取った取った」と答えると、「pagan pictures?ガッハッハ」という もはや笑うところなのかどうなのかよくわからない ちなみにCおじさんはわたしが英語が話せないと思っていて、その先入観のためにわたしが何を言っても9割方聞き取れない(自分の英語にアクセントがないとは言わないが、いくらなんでもそこまでひどくはない) おじさんは憎めない人なので、腹は別に立たないし、わたしはわたしでアクセントの問題とは関係なく、あんまり彼が言っていることの内容がよくわからないため、わたしたちふたりの間ではあまりコミュニケーションが成り立たず、傍から見るとほとんどコントのようになっている

ともあれ、Cおじさんはわたしがカトリックでないということについていろいろと思いを馳せていたようで、今回の来訪では繰り返し、わたしが改宗しようと思えばいつでもできる、ということを言って帰っていった なぜ改宗してもらいたいかと言えば、これだけカトリック信仰が生活の基礎になっている一族と結婚し、今はたまたまここに住んでもいるんだから、というがまずあるのだろうし、娘が生まれたから、娘にも洗礼を受けさせたいのだろう カトリックでないpaganである以上、わたしは地獄に落ちることになっていて、一応家族になった人が地獄に落ちるのはやっぱりまずいのかもしれない

しかし、これはCおじさんには言わなかったが、正直にいって、わたしは地獄に落ちようが何しようが別にどうでも構わないのだ わたしは夫の母方の文化的伝統には敬意を払っているが、それだけが理由で形式的に改宗することに意味を見出せない また、もし夫が娘に洗礼を受けさせたいと言えば、それはもちろんそうしてもらってよいのだが、夫自身毎週教会に行くわけでもなく、多くの教理を時代錯誤に過ぎないと思っているわけで、それなのに形式だけ洗礼を済ませる(そしてその後二度と教会に戻らない)のはアホらしいと言う 

この問題何がややこしいかというと、わたしたち夫婦は法的には結婚しているが、カトリックの教義ではカトリック教徒と非カトリックは結婚できないため、教会の元ではわたしたちは結婚していないことになっている もし結婚しようとすれば、わたしは何ヶ月もかけて教理を学んだり、さまざまな複雑な手続きを得なければならない Cおじさん曰く、これもすっ飛ばして紙ペラ一枚提出すればどうにかなるという 神父がそういうのだからできるのかもしれないが、果たしてそうすることがいいことなのだろうか また娘の洗礼に関しても、夫によれば正式には、子どもを洗礼するためには少なくとも両親のうちは片方がカトリックでなくてはいけないし、少なくともふたりともクリスチャンでなくてはいけない これもCおじさんは、大丈夫大丈夫と言うが、どうなのだろうか 

カトリックにはそれはそれはたくさんのルールがある そしてルールのあるところには例外がある 現代に生きていると複雑怪奇な宗教上のルールを遵守することはもちろん難しい そのため何か制度上の矛盾が生じるところにはほとんどと言っていいほど例外事項が存在する たとえばカトリックで一番特徴的なのは離婚ができないことだが、離婚はできなくても結婚を無効化すること(annulmentという)は可能なのである 実際夫の一族でも、教会の元で結婚したけれど、その後離婚した(法的に離婚して教会ではannulmentの手続きを経たということだろう)人は山ほどいる

夫にしたら、これら一連の例外事項がご都合主義にしか見えず、できないことは始めからしなければいいのに、なぜ例外を設けてまでルールを守っている振りをするのかよくわからないらしい paganたるわたしはどっちにしろ蚊帳の外なので、なんだかなんというか、どっちでもよい どっちでもよいが、もし仮に娘が洗礼を受けた場合(おそらくしないだろうが)、家族の中でお母さんだけ地獄に行くということを、彼女がどのように受け止めるのだろうかとは、ぼんやり思うのだった

0 件のコメント:

コメントを投稿