8/27/2010

怒りとつきあう

きのうの晩から今日の昼前にかけては随分ひどかった

仕事を再開して最初の週を乗り切って緊張が解けたせいなのか、わけもなく突然に感情的になり、涙が止まらなくなった と思えば次の朝には、常軌を逸した怒りがこみあげてきて、悪態をつきまくった

わたしを知るたいていの人は、わたしが時々このような状態になるということを知らない なんとなく鬱っぽいとか、なんとなく幸薄そうとか、なんとなく頭がおかしそうとか、なんとなく家庭環境が悪そうだとか、そのようなイメージはいくらでもついて回ってきたのだろうが、こう見えてわたしは、日本にいた頃は外面がいいときもあったから、人の悩みを聞いたり助言したりなど、今となっては考えられないような偉そうなこともしていた 
まあもちろん、誰かれ構わず爆発しているようでは、まともな社会生活が営めないのだから、外面を持つのは当たり前のことなのだ しかし家での爆発に常時付き合っている家族、今の場合は夫だが、彼らにしたら、そんなのはとんでもないとばっちりでしかないだろう

怒りのわけはわかっている
どうしても好きになれない人間(隣人の元彼女だか元鞘に戻っただか)がいて、彼女がフェイスブックで夫に話しかけてきたのが耐えられなかったのだ それを見た日は夫の誕生日だったので、大事な日をぶち壊しにしてはならんと思って、そのことは口に出さなかった、でも結局後になって、ふつふつと怒りが沸いてきてぶちまけてしまった 思い返せば去年調子を崩しかけていたときも、実は彼女のことを考えてはブチ切れるということが、何度となくあった これは確実に、トリガーのようなものになっている

ふつうは大人になると、誰かのことを死ぬほど嫌いだとか憎いとか、思ったりしなくなるもんではないだろうか 自分自身、こんなに特定の人間のことを忌み嫌うのは子どものとき以来なので、自分が抱える膨大な怒りの感情に面食らってしまう 

しかし、CBT的には、怒りなどのネガティブな感情を全否定するのは逆効果である 「怒るのはよくないことだ」として抑圧すると、結局「怒ってしまった駄目なわたし」に向かって怒りがブーメランのように戻ってくる そうではなく、ネガティブになっている自分を一旦丸ごと受容した上で、着地点を見出したいのだ

さしずめ、こういうことか: 怒るのは仕方がない すべての人間とはうまくやれないし、たいていの人間は彼女の態度に多少の怒りは感じるのではないか しかし、そのような人間に自分の感情を振り回されてしまうのは、もったいないことだ 第一彼女は遠くに住んでいて、ネット以外で目にする機会すらない 現実には、自分たちの生活にはまったくかかわりのない人間なのだ

あれっ これは全部夫に一回言われたことばかりだなあ…
やっぱり、言われたことが腑に落ちるためには、自分でもう一回書いて受け止めないといけないということか

2 件のコメント:

  1. 先日コメントさせていただいたものです。
    うーんと、こう言うのを見ると、まず、勧めたくなってしまうのが、Judith Hermanの本です:"Trauma and Recovery"。図書館行けばおいてあると思うので、暇があれば、読んでみてはどうでしょうか・・・。
    自分も、怒りという感情に、かーなり振り回されやすいので、多分言わんとしていることは、わかる気がする・・・。

    このブログ、面白いので、更新楽しみにしています!

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  2. okさん、コメントありがとうございます
    その本面白そうですね トラウマというほど大したものを持っているわけではないのですが、というか持っていたとしても意識に上るようなものではないのかもしれませんが。。。でも図書館で探してみます
    この書き込みなんかはかなり心が裸の状態で書いてるので、今読み返すと恥ずかしいところもあるのですが、ブログ面白いといっていただけてうれしいです!

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